新川二朗さんに異変が起きたのは16日の事、ろれつが回らなくなり、緊急搬送された17日には肺の手術を受け人口呼吸器を装着する事態になりました。しかし、21日午後7時10分帰らぬ人になりました。
新川二朗さんが21日亡くなられました。
長い間日本の歌謡界を支えてこられた新川二朗さん。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。 pic.twitter.com/oZvCh7H13A— CDショップ 五番街 (@shop_gobangai) August 22, 2022
新川二朗さんの生い立ちと輝かしい履歴
新川二朗は石川県羽咋郡志雄町(現在の宝達志水町)で生まれています。
実家は小さな商店を営んでいました。
芸名 | 新川二朗(しんかわ じろう)(1979年に改名しました。) |
旧芸名 | 新川二郎(しんかわ じろう) |
本名 | 沢田幸雄 |
生年月日 | 1942年11月2日 |
生年月日 | 1939年11月2日 2016年戸籍通りに変更すると公表しました |
NHK紅白歌合戦 | 1964年『東京の灯よいつまでも』 |
受賞歴 | 日本レコード大賞功労賞 |
事務所 | 新栄プロダクション |
石川県立羽咋高校卒業後、金沢市卯辰山にある金沢ヘルスセンターで専属歌手として
歌っていました。
羽咋高等学校ではボクシン部に所属し、スポーツマンとして活躍。
体格も良く姿勢がビシッと決まっているのは、そこから来ているようですね。
金沢ヘルスセンターは1958年11月1日開業、後に(金沢サニーランド)と改称。
北陸最大の規模の娯楽施設として人気になりました。
動物園、劇場、映画館、遊園地、大浴場、宿泊施設があり大勢の親子ずれが訪れ
賑わっていました。
しかし、施設の老朽化や来館者数が激減し、1993年8月31日に閉鎖しています。
金沢ヘルスセンターで歌ってる新川二朗の噂を聞きつけた村田英雄さんに
スカウトされ、上京して新栄プロダクションで修行が始まり
佐伯としを氏に師事しました。
1962年キングレコードから『君を慕いて』で念願のデビューを果たしています。
45万枚が売れたそうです。
● いい歌ですね。いつ聞いても心にしみます。
● なぜだか 胸がキューンと切なくなります♪♪
● 素晴らしく落ち着いた心が安らぐ 曲です
視聴者のコメントです。
1964年『東京の灯よいつまでも』が大ヒットしました。
作詞が藤間哲郎氏、作曲が佐伯としを氏による作品です。
● リズム感軽く、明るさあり、好きです。
● 演歌の中で一番好きな曲で聞けば元気が出る曲です。
● 本当に独特の声と歌い方、最高に素敵です。生で聞きたいですね。
視聴者によるコメントです。
ちょっと鼻にかかった甘い歌声は多くの人を魅了しました。
この作品は東京オリンピック開催前の昭和39年7月に発売され大ヒット!
年末までに何と50万枚を越える売上をみせました。
この曲で新川二朗は「第15回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たしたのです。
2020年にNiziU(マヤ)が紅白に出場するまでは、石川県で唯一の
紅白出場者でした。
金沢ヘルスセンターではあの大物俳優梅沢富美男さんも出演
もう30年も前の話ですが無名時代の梅沢富美男さんが、金沢ヘルスセンターで出演。
皆さん過去には、ご苦労していらっしゃったのですね。
梅沢富美男のズバッと聞きます
金沢ヘルスセンター
30年前くらい?#梅沢富美男のズバッと聞きます#梅ズバ #金沢ヘルスセンター@retoro_mode pic.twitter.com/jVex2lnIiC— hiro (@hirohiro_aaa) July 17, 2019
梅沢富美男さんは、この金沢を第二の故郷と言って下さり、地元の
人間として嬉しい限りです。
まとめ
今月8月21日に亡くなられた新川二朗さんを書きました。
2019年9月21日浅草ビューホテルにおいて
芸道60周年傘寿を祝う会が行われました。
礼儀正しく謙虚な新川二朗さんは、多くのファンに愛されていました。
デビュー以来、半世紀以上も「1942年生まれ」と
公称して来たが2016年に戸籍通り「1939年生まれ」に変更すると
発表し周囲を驚かせました。
ご家族の件は一切、情報がありませんでした。
徹底してプライバシーは守った感じがあります。
過去に弟さんが42歳で死去された事を話されていました。
石川県を代表する歌手、新川二朗さんのご冥福をお祈り致します。